欲しいものを欲しいと言えない

自由にして良いと言われるのが一番困るのだ。選択肢が多すぎると、そのぶん、不正解を選ぶ可能性が高くなるからだ。間違うことが怖い。恥をかくのが怖い。人に笑われるのが怖い。

昔から、選ぶことや自分の意見を言うことが苦手だった。選ぶことというより、自分が何かを選んでいるところを見られること、と言うほうが正しいかもしれない。それから、自分の趣味嗜好について答えることも嫌だった。何かをして人に笑われたとかの記憶はない。もしかしたら忘れているだけかもしれないけれど。相手の期待通りの答えができずに恥をかくことが、ただただ怖かった。

小さい頃、クリスマスプレゼントに欲しいおもちゃを選ぶことが恥ずかしかった。こんなおもちゃを選ぶなんて親に笑われるかもとか、こんなのが好きだなんて失望されるかもとか、そういう考えがまず第一に頭に浮かんだ。同じ理由で、家族でファミレスに行った時のお子様ランチのおもちゃもなかなか選べなかった。

小学校の授業で作文を書いている時に、先生が席を回って歩くのが嫌で嫌で仕方がなかった。先生が近くに来たら急いで原稿用紙を手で隠していた。書いているところを見られるのが嫌だった。字を間違って恥をかくかもしれない、ここでこう書こうとしているのはおかしいのかもしれない、すらすら書けなくて変だと思われているかもしれない。実際にはわからない人の感情を勝手に想像して、勝手に恐怖心を抱いていた。
放課後、友達から一緒に駄菓子屋に行こうと誘われるのが嫌だった。お菓子は食べたいけれど、好きなお菓子を選ぶのが恥ずかしかったからだ。

中学・高校と、美術部に所属していた。絵を描くことは好きだった。でも人前で描くことができなかった。描いているところを誰かに見られたくなかったので、いつもこそこそと美術室の隅っこで絵を描いていた。選ぶ絵の具の色さえ、見られるのが嫌だった。高校では、最低年1回は絵を展覧会に出さなければいけなかったが、誰にも見られないように完成させた絵を提出したあとは、一度も会場に行ったことはなかった。自分の絵を見る人を、見たくなかった。

教室で本を読んでいて、クラスメイトから「何を読んでるの?」と聞かれると、恥ずかしくてとっさに本をしまい、「なんでもないよ」と答えていた。好きな音楽はなにかと聞かれて、好きなアーティストを素直に答えることさえ、恥ずかしいと感じていた。

完璧でないといけない気がしていた。人の期待にいつも応えなければいけないと思っていた。自分の選択に、行動に、とにかく自信がなかった。
でもそんなのは子供のころの話で、私はもう大人なのだから、ちゃんと大人として振る舞うことができる。もう大丈夫だと、思っていたのだが。

友人と食事に行った際に、「好きなの頼んでいいよ」と言われて、私は固まってしまった。食べたいものはあるけれど、選べなかった。いちいち、こんなの選んで笑われるかも、とか考えてしまう。小学生のころから何も変わっていない。

こういう羞恥心や恐怖心は、やはり異常なものなのだろうか。誰も私みたいに、選ぶことを恥ずかしいと思わないのだろうか。

ふと今までの人生における選択の場面を思い返す。

お母さんが選んだ服を着ていた。お母さんが選んだ本を読んだ。お母さんが選んだ習い事をした。お母さんが選んだ塾に入った。お母さんが選んだ高校に入った。お母さんが選んだ大学に入った。そして私は就職に失敗した。自分で選べなかったからだ。

本当に恥ずかしいことは、自分で選べないことだった。そう気づいても、私は常に人の反応を想像してしまうし、勝手に羞恥心を抱いてしまう。