リンツのチョコレート

いろんなものが簡単に手に入れられるようになって、殆どのものに興味がなくなってしまった


初売りの広告を見ていて、ふと自分には何も欲しいものが無い事に気がついた


続いているのか別の話か疑問だが、人が何かをプレゼントしてくれるというタイミングでも欲しいものが思い浮かばない


必要な物であれば自分で買うし

形のあるものは手放せなくなるかもしれない

高額なものであれば見るたびに感謝の念を思い続ける事になるかもしれない


なんでもいつでも手に入るようになり、結果的に何もいらなくなってしまった


リンツのチョコレートを見てももう何も感じられない

https://youtu.be/oo1YfE9xNbY


「夏は暑い」「冬は寒い」「好きな人好き」

好きな人って本当にいたことありますか?恋愛感情のことです。そもそも、恋愛感情がわかりません。恋愛感情って、本当に存在する感情ですか?
好きな人ってなんですか?顔ですか?恋愛対象かそうでないかって何が違うんですか?友達に対する好きと、恋愛対象との違いってなんですか?

自分から人を好きになったことがありません。断れない性格に身を任せてここまで来ました。好意を向けてくれた人のことは必然的に好きになりました。私を認めてくれる人=好きな人でした。しかし、それが恋愛感情かどうかはわかりません。最低な奴だな。きっとそう思われたことでしょう。

人を好きになる要素って何があるのか考えてみたんです。相談にのってくれる、親切にしてくれる、優しくしてくれる。けどそれって、一般的な、ふつうに良心を持っている人間なら誰でも当てはまるというか。普通に社会に出て生きていれば、好きな人になりかねない人間に山ほど出会うわけです。でもどこかで、恋愛対象かそうでないかの区別がされる。
恋愛感情とは一体なんなんですか?
結局世の中の多くの人の本心って、顔ですよね?
私には人を見た目で好きになるという感覚はあまりわかりません。

自分の感情が、よくわからないんです。自分がいま幸せかどうか、この先幸せになれるかどうか、そういうことを考えたことはありますか?幸せとは何なのかという問いも出てきてしまいますが。私はこのまま生きていけば、なんとなく幸せなんだろうなという感覚はあります。でも、この生き方が正解だったのかという確証がつかめないままなのです。流れのままに生きてきました。選択肢など、存在していたでしょうか。わかりません。何もわかりません。

好きな人ができたことがありません。
常に相手ありきの人間関係でした。私を嫌っている相手のことは嫌いです、好意的に接してくれる人のことはみんな好きです。人への好きという感情に優先順位をつける感覚がいまいちわかりません。特別な感情がわかりません。初対面の人に「好きです」と言われたら「私も好きです」と答えてしまいます。

人はみんな、ちゃんと理解して恋愛をしているんでしょうか。
だとしたらごめんなさい。私はずっとわからないまま、恋愛を真似して生きて、ここまで来てしまいました。小学生の子たちのほうが、うまく恋愛をしているんだろうな。
最低で、失礼きわまりない、ゴミ人間です。そういう自覚だけはあります。ここだけの話にしてください。

 

解像度の話_20190917

周囲に細かい人間はいないだろうか
細かく考える人は考え過ぎるくらい考えて初めてその世界に辿り着く
精緻な世界を描写するには精緻な物を観察する目が必要だ
時にその精緻さは現実を超えた虚構を作り出すこともある


何の話か。解像度の話である。


秀でた才をもって生まれなかった市井の者たちは物事に対して、
その解像度で世界を見んとして初めてその世界を見る目を鍛える権利を得る
大枚に過ごせば感性は鈍化する

雑な作業ばかりすれば腰を据えて考える事は困難になる
無為な時間を過ごせばやがて考えねばならない事を考えることもできなくなる


何の話か。解像度の話である。


「生まれ持った何かがその特徴や性質を決める」という考え方が、私は余り好きではない
男性と女性で色に関する認識幅が大きく違う事はよくネットでも話に挙がる
女性はそれだけ色や空間の空気や、ひいては世界そのものにセンシティブであるという話だ
こういう表現は「女性は生まれつき敏感で繊細だが、男はガサツで美的センスがない」と言っているようで余り好きではない
マサイ族の女性で再現するのか想像してみる

「ならないだろうな」と思う 想像だが
アフリカンスは音楽(特にリズム)に対してセンシティブだと私は思っている
これは集団で狩猟を行う際の意思疎通の手法が楽器だったり掛け声だったりしたがために
その原始的なコミュニケーションの力が受け継がれて民族の特徴として根付いたからだ
(そんなものは嘘八百だしアフリカンスがモンゴロイドと比較して本当に音楽的センスに秀でているのかどうかもその根拠や通説があるのかも私はわからない)


何の話か。解像度の話である。

 

*************************************


全ての問題は先送りにしたところで、然るべきタイミングに必然性をもって再現する
全ては避けて通れず、避けて通れたかのように見えた問題は
やがてより凶悪な獣となって、より都合の悪いタイミングで人生の前に立ちはだかる

熊の場所


*************************************


新しい言葉や概念を得る事はそのまま世界を拡大する事だ

 

「先生、今日のクリース決まってますね。」

 

「え?」

 

「クリースですよ、クリース。知らないんですか?スラックスのラインの事です。」


昔の会話だが、ズボンの折り目の事をクリースと呼ぶ事を知らなかった私はこのやり取りで一つ世界が広がった
多くの事を知る事は、そのまま自分の世界を豊かにすることだ
多く知る者は少なく知るものより多くの想像力を持つことができると信じている

尤も、クリースなんていう概念は存在しなくてもズボンの折り目としてそこに存在しており、
実態は概念なくしてもその世界に存在してはいるわけだが・・・

プロトコルを沢山持つものは多く会話する事ができるように、多くの概念を保持するものは多くの事柄に敏感に向き合う事ができる
英語版wikipediaの総記事数は日本語版wikipediaの何倍かご存知で?


何の話か。*%$'@#:


みんなのミュシャ展/bunkamuraに行って感じた事と不満足且つ豚の話/20190917

欲しいものを欲しいと言えない

自由にして良いと言われるのが一番困るのだ。選択肢が多すぎると、そのぶん、不正解を選ぶ可能性が高くなるからだ。間違うことが怖い。恥をかくのが怖い。人に笑われるのが怖い。

昔から、選ぶことや自分の意見を言うことが苦手だった。選ぶことというより、自分が何かを選んでいるところを見られること、と言うほうが正しいかもしれない。それから、自分の趣味嗜好について答えることも嫌だった。何かをして人に笑われたとかの記憶はない。もしかしたら忘れているだけかもしれないけれど。相手の期待通りの答えができずに恥をかくことが、ただただ怖かった。

小さい頃、クリスマスプレゼントに欲しいおもちゃを選ぶことが恥ずかしかった。こんなおもちゃを選ぶなんて親に笑われるかもとか、こんなのが好きだなんて失望されるかもとか、そういう考えがまず第一に頭に浮かんだ。同じ理由で、家族でファミレスに行った時のお子様ランチのおもちゃもなかなか選べなかった。

小学校の授業で作文を書いている時に、先生が席を回って歩くのが嫌で嫌で仕方がなかった。先生が近くに来たら急いで原稿用紙を手で隠していた。書いているところを見られるのが嫌だった。字を間違って恥をかくかもしれない、ここでこう書こうとしているのはおかしいのかもしれない、すらすら書けなくて変だと思われているかもしれない。実際にはわからない人の感情を勝手に想像して、勝手に恐怖心を抱いていた。
放課後、友達から一緒に駄菓子屋に行こうと誘われるのが嫌だった。お菓子は食べたいけれど、好きなお菓子を選ぶのが恥ずかしかったからだ。

中学・高校と、美術部に所属していた。絵を描くことは好きだった。でも人前で描くことができなかった。描いているところを誰かに見られたくなかったので、いつもこそこそと美術室の隅っこで絵を描いていた。選ぶ絵の具の色さえ、見られるのが嫌だった。高校では、最低年1回は絵を展覧会に出さなければいけなかったが、誰にも見られないように完成させた絵を提出したあとは、一度も会場に行ったことはなかった。自分の絵を見る人を、見たくなかった。

教室で本を読んでいて、クラスメイトから「何を読んでるの?」と聞かれると、恥ずかしくてとっさに本をしまい、「なんでもないよ」と答えていた。好きな音楽はなにかと聞かれて、好きなアーティストを素直に答えることさえ、恥ずかしいと感じていた。

完璧でないといけない気がしていた。人の期待にいつも応えなければいけないと思っていた。自分の選択に、行動に、とにかく自信がなかった。
でもそんなのは子供のころの話で、私はもう大人なのだから、ちゃんと大人として振る舞うことができる。もう大丈夫だと、思っていたのだが。

友人と食事に行った際に、「好きなの頼んでいいよ」と言われて、私は固まってしまった。食べたいものはあるけれど、選べなかった。いちいち、こんなの選んで笑われるかも、とか考えてしまう。小学生のころから何も変わっていない。

こういう羞恥心や恐怖心は、やはり異常なものなのだろうか。誰も私みたいに、選ぶことを恥ずかしいと思わないのだろうか。

ふと今までの人生における選択の場面を思い返す。

お母さんが選んだ服を着ていた。お母さんが選んだ本を読んだ。お母さんが選んだ習い事をした。お母さんが選んだ塾に入った。お母さんが選んだ高校に入った。お母さんが選んだ大学に入った。そして私は就職に失敗した。自分で選べなかったからだ。

本当に恥ずかしいことは、自分で選べないことだった。そう気づいても、私は常に人の反応を想像してしまうし、勝手に羞恥心を抱いてしまう。